阿弥陀さまに抱かれて(127)

-6月の法話-

~救いが先~

<南無阿弥陀仏とは>

 

 浄土真宗は、南無阿弥陀仏の教えです。阿弥陀如来という仏さまが、自分の力では決してさとりを開くことのできない私たちを、必ずお浄土に救い取っておさとりの仏にして下さいます。阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏となって「今すでに」はたらいています。

 

 では、南無阿弥陀仏とは何なのか。南無阿弥陀仏には、2方向からの意味があるといえます。それは、阿弥陀仏の方から言うと「南無」は「まかせよ」という意味、「あらゆるものを救うことのできる仏となったから、この阿弥陀仏にまかせなさい」ということです。それがそのまま、私の方から言うと「南無」は「まかせる」という意味です。私をおさとりの仏にしてくださる「阿弥陀さまにおまかせします」ということです。

 

 

<他力の信心>

 

 浄土真宗の根本は他力の信心です。他力の信心を得ることが一番大切なことです。他力の信心とは「南無阿弥陀仏とは何なのか」ということをよくよく聞き開いて、何のはからいもなく「阿弥陀仏にまかせる」ということです。

 

 南無阿弥陀仏と「阿弥陀仏にまかせた」時、必ずお浄土に生まれ、おさとりの仏となる身に定まります。人生、悲しみ・喜び、苦しみ・悩み・楽しみ等、色々ありますが、その中で一歩一歩がおさとりの仏さまへの人生に変えなされます。

 

 

<妙好人・お軽>

 

 江戸時代の後期、山口県下関の近海、六連島に「お軽」という妙好人(みょうこうにん)がいました。妙好人とは、浄土真宗の教えをよく聞き、とても喜び、南無阿弥陀仏の救いにわが身をまかせて人生を送る人のことです。

 

 しかし、お軽さんも最初から浄土真宗を喜んでいたわけではありません。とても辛い苦悩が機縁となって南無阿弥陀仏の救いに出遇いました。

 

 お軽さんは19歳の時、幸七というおとなしい実直な青年を養子にもらい結婚しました。子どもも生まれて、何の不足もない幸せな日々が続いていました。お軽さんと幸七さんは、農業を営み、収穫した野菜を幸七さんが下関や北九州に売りに行って、生計を立てていましたので、幸七さんは家を空けることも多く、十日も二十日も帰らないことがよくあったそうです。そういう生活の中で、こともあろうに幸七さんが、北九州に好きな女性ができて浮気をしてしまったのです。

 

 お軽さんは、幸七さんの浮気を知った時、まるで足元の大地が崩れて落ちて、奈落の底に引きずり込まれるような思いがしました。しかしこの悲しみ、苦しみが、やがて彼女を仏法(仏さまの教え)に導く機縁となっていきました。お軽さんはお寺に何度も通い、仏法を聞きました。心の苦しみを何とかしたかったのですが、憎しみと嫉妬に狂う心は、簡単に収まってはくれません。家庭に落ち着く所がなく、仏法を聞いても心の安らぎを得ることができませんでした。でも、お軽さんは仏法を聞くことを止めませんでした。

 

 

<救いは先に届いている>

 

 どうしたらこの苦しみから救われるのか、どうしたら仏さまのお慈悲が有り難く頂けるのか、聞いても聞いても分かりません。その時の心情をお軽さんは「お慈悲が聞こえません」と言っています。

 

 そうして月日が過ぎました。そして、頑ななお軽さんの心にも南無阿弥陀仏が至り届き、阿弥陀仏の「我にまかせよ」という喚び声に素直に頷く時がやってきたのです。34、5歳の頃だと言われています。南無阿弥陀仏の仏さまは、その苦しみ悩むお軽さんを目当てとして、遥か遥か前からはたらき通しだったのです。すでに救いは届いていた、救いの中だったのです。

 

 その喜びをお軽さんは次のように詩っています。

 

 「弥陀のお慈悲を聞いてみりゃ 聞くより先のおたすけじゃ」

 「おのが分別さっぱりやめて 弥陀の思案にまかしゃんせ」

 

 「人生辛いことも、悲しいことも、苦しいこともあるが、南無阿弥陀仏の慈悲の声を聞かせてもらった。この南無阿弥陀仏に遇うための人生でありました」

 

(住職)