阿弥陀さまに抱かれて(119)

-10月の法話-

~南無阿弥陀仏に遇(あ)う~

<何か空しい>

 

 新聞の人生相談の欄に、このような相談が寄せられていました。

 

<埼玉県在住・88歳の女性の相談>

 「88歳の無職女性。戸建て住宅に一人暮らしです。子どもは長男・長女・次女の3人です。3人とも同じ県内に住んでおり、それぞれ幸せな家庭を築いています。

 

 数年前に夫がガンで亡くなるまで、私たち夫婦は共に趣味にボランティアに忙しく、今になって思えば、幸せな日々を過ごしてきました。

 

 一変したのは、夫が亡くなってからです。私は何事もやる気がうせてしまったのです。

 

 子どもたちは朝晩に電話やLINEで欠かさず連絡をくれます。また、毎週欠かさず家に来てくれて、病院の付き添いや買い物などを手伝ってくれます。みんなに助けてもらいながら、何とか暮らしています。

 

 ただ「何のために生きているのか分からない」という思いに取りつかれています。今後、どのような心の持ちようで生きていけばよいのか教えてください」。

 

 それまでは、幸せに暮らしていた。幸せになるために夫婦で力を合わせて頑張り、子ども3人を立派に育て終り、子どもたちはそれぞれ独立した。老後は夫婦で仲良く幸せに過ごしてきた。でも、連れ合いを亡くしてからは、何か心が空っぽになったようだ。子どもたちは優しくしてくれるが、何か空しい。何のために生まれて来たのか分からない、何のために生きているのか分からない。

 

 これは、心にしみる苦しみでしょう。また、多くの人が感じるようになる悩みかも知れません。

 

 

<南無阿弥陀仏に遇う>

 

 親鸞聖人ご制作の高僧和讃に「本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水へだてなし」とあります。

 

 本願力とは、南無阿弥陀仏のことです。本願力にあうとは、南無阿弥陀仏のいわれを聞いて信じる、すなわち、南無阿弥陀仏が私のものになって下さるということです。

 

 「本願力にあったならば、決して人生が空しく過ぎてしまうことはない。南無阿弥陀仏が私の苦しみ悩みいっぱいの心の中に、空しく穴の開いた心の中に満ち満ちて、私の心を満たして下さる」というのです。

 

 生きていると、色々な苦しみ・悩み・悲しみがあります。でも、人生無駄なことは一つもありません。仏教で説く四苦の中に「病苦」があります。健康でありたいが、病気になる縁にあえば病気になってしまいます。それで長く苦しむことになることもあります。

 

 しかし、このような話を聞きました。統合失調症を長く患っておられた老人がいました。この老人は、縁あって南無阿弥陀仏の教えを聞き、南無阿弥陀仏が心の中に満ち満ちて下さる身になりました。

 

 この老人は、癌にかかり命終えて行かれたのですが、「この病気になって良かった、この病気のお陰で阿弥陀さまのお慈悲、南無阿弥陀仏に遇うことができました。今が一番幸せです」と言っておられたそうです。

 

 南無阿弥陀仏は、苦悩から逃れられない私に「必ずおさとりの仏になる身にして、本当の安心を与えよう」とはたらいていて下さる、阿弥陀さまのお慈悲そのものです。

 

 南無阿弥陀仏に遇うことができたならば、苦悩や悲しみさえもが「お陰さまでした」と転じられていきます。

 

 南無阿弥陀仏に遇うために生まれて来た、そして南無阿弥陀仏に包まれて生きているという人生には、空しさはありません。有難いことです。

 

 「人生お陰さま」と生きて行けることほど、幸せなことはありません。

 

(住職)