阿弥陀さまに抱かれて(122)

-1月の法話-

~南無阿弥陀仏を聞く~

<仏さまの教えを聞く>

 

 新しい年が明けました。今年もご一緒に、仏さまの教えを聞くことが出来たら、有り難いことです。

 

 本願寺第8代宗主の蓮如上人は「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」と、仏法すなわち仏教は「仏さまの教えを聞くことが何よりも大切なのだ」とお示しです。浄土真宗は特に、教えを聞くことを大事にします。その聞くことを聴聞といいます。耳だけではなく、目でも聞く、それは、心で聞くということです。では、何を聞くのか。それは、南無阿弥陀仏とは何かということを聞くのです。

 

 

<聴聞は手段ではない>

 

 私たちは普段、何かの役に立つか立たないかで一つの価値判断をします。しかし、仏教は役に立つか立たないかというものではありません。何かの役に立てるために聴聞するのではありません。聴聞は生活の役には立ちません。聴聞することによって生活が良くなるとか、そういうものでもありません。しかし、仏さまの教えを聞くことを重ねることで、仏さまの教えが私の中に入り込んで下さって、私の心に変化を与えて下さいます。例えば、物の見方が変わるとか、本当に大切なものは何かを知らされるとか、変わらない安らぎを与えられるとか……。

 

 浄土真宗の根本は、他力の信心を得るということです。信心を得るには聴聞をするしかないのですが、しかし、聴聞は信心を得るための手段ではないのです。

 

 これも蓮如上人のお言葉ですが「聴聞を心に入れまうさば、御慈悲にて候ふあひだ、信をうべきなり」とあり、それに続いて「ただ仏法は聴聞にきはまることなり」とあります。

 

 聴聞を重ねていく中で、仏さまの方から私の心に入ってきて下さるのです。仏さまの心が私の心に至り届いたすがたを「他力の信心」といいます

 

 

<南無阿弥陀仏に遇(あ)う>

 

 南無阿弥陀仏に遇(あ)う。この「遇う」とは「聞く」ということです。そして「聞く」とは「信じる」ということです。「信じる」とは「南無阿弥陀仏の救いのはたらきに、この身をはからいなくまかせる」ということです。

 

 遥か遥か昔、阿弥陀仏が法蔵菩薩という菩薩であった時、法蔵菩薩は「生きとし生けるものをお悟りの仏にすることの出来る仏とならなかったら仏と名乗らない」と誓い、兆載永劫という永い永い時をかけて修行し、その誓願を成就された。そして、法蔵菩薩から阿弥陀仏への全てが南無阿弥陀仏と現れているのだと、『仏説無量寿経』というお経に、南無阿弥陀仏のいわれが説いてあります。阿弥陀仏の救いは、南無阿弥陀仏と完成しているのです。

 

 南無阿弥陀仏が聞こえる。それは、阿弥陀仏が私たち一人ひとりのために、いつでもどこでも、はたらいていて下さるということです。

 

 親鸞聖人は、南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の喚び声であるとお示しです。それは「私にまかせなさい。あなたを必ずお悟りの仏にします。安心しなさい」という大慈大悲の喚び声です。

 

 「南無阿弥陀 こころ一つに味二つ 親の呼ぶ声子の慕う声」と歌った人がいます

 

 南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏の私への喚び声であり、私が阿弥陀仏を慕う声です。私の口で称えるお念仏ですが、それは阿弥陀仏の喚び声であり、その喚び声におまかせした私のすがたです。

 

 南無阿弥陀仏におまかせした時、必ず浄土に生まれ、仏になる身とならせてもらいます。この度の私の人生が、お浄土への人生と変えなされます。

 

(住職)