阿弥陀さまに抱かれて(120)

-11月の法話-

~後生の一大事~

 後生とは、現在生きている現生の後に来る生涯のことです。一大事とは、最も重要なことという意味です。すなわち「後生の一大事」とは、生死流転(生まれては死に、生まれては死にという、迷いを繰り返していること)を解決して、後生に浄土に往生し、おさとりの仏に成るという、人生における最も重要な事ということです。

 

 分かりやすく言うと「死んだらどうなるのか」ということを解決することです。「死んだらどうなるの?」。これは、私たち人間の素朴な疑問であり、且つ、「いのち」の根本的な問題です。

 

 私たちは、縁あって命をいただきました。しかし、命をいただいたということは、必ず命終っていかなくてはならないということです。そのことは、私たちの根本的な問題であるはずです。しかし、私たちはそのことに中々目を向けようとしません。それは、自分の力ではどうにも解決できないからかもしれません。

 

 京都:西本願寺から出ている機関紙『大乗』の2014年7月号に出ていたお話しです。

 

 日曜日の夕食時、黙って食事をしていた小学生の男の子が、突然「人はみんな死ぬの?」と言い出したそうです。すると「当たり前じゃないか。人間だけじゃない。動物や植物、命あるものは必ず死ぬ」と父親が答えたそうです。そしてその後、次のようなやりとりがありました。

 

 「じゃ、僕もいつかは死ぬんだね」

 

 「君だけじゃない。お父さんもお母さんもおばあちゃんもみんな死ぬんだ。おじいちゃんは死んじゃっただろう」

 

 「じゃ、僕は死んだらどうなるの?」

 

 「君はまだ小学生で、これからいろんなことを勉強して、生きていく努力をたくさんしないといけないのに、死んだらどうなるか悩むなんて早過ぎるだろう。死ぬ心配をするより、生きる心配をしなさい」

 

 男の子は結局、答えをもらえず、次に母に向かって同じことを聞いたところ、「人が死ぬなんて、そんな縁起の悪いことを気安く口にしてはいけません」と取り合わなかったそうです。

 

 最後に「おばあちゃん、おじいちゃんは死んじゃったけど、どうなったの?」と聞かれました。祖母が家族の前で仏法を説く絶好の機会です。ところが、祖母は息子と嫁を前にして何も言えなかったそうです。

 

 しかし、その祖母は日頃から仏法を聞いており、「死んだらお浄土に生まれて、仏さまに成らせていただくと、私はそう思っています」と、後生の一大事を知らせてもらっていました。ただ、それを家族の前で口にする勇気と自信がなかっただけのようでした。

 

 「死ぬ心配をするより、生きる心配をしなさい」

 

 これは、一般的な答えであり、多くの人の考えではないでしょうか。私たちは、どのように生きるかということばかりを問題にし、死ぬということには出来るだけ目を向けないようにしていると言った方が当たっているでしょう。

 

 しかし、生と死は紙の表と裏のような関係で、生きているということの裏には、常に死を抱えているのだと、仏さまは教えて下さいます。生と死は切り離せないのだから、死を見つめて生きていきなさいと、教えて下さいます。

 

 「死んだらどうなるの?」。すなわち後生の一大事は、私たち人間の知性では解決できません。どんなに科学が、医療が発達しても解決できません。

 

 そんな私たちに、おさとりを開かれた仏さまが教えを説き、後生の一大事を示していて下さいます。

 

 阿弥陀仏という仏さまが、私たちのために、遥か遥か西方にお浄土という世界を建立下さり、私たちを「そのお浄土に生まれさせ、仏にしよう」とはたらいて下さっていると。

 

 阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」という私たちの口に称えられる念仏の声となって、私たちのところに届き、今すでにはたらいていて下さっています。

 

 お浄土はおさとりの世界、智慧の光明で生死の迷いの闇が破られた明るい世界です。ですから、命の行方をお浄土といただいた人生は、おさとりの明るい世界への人生と変えなされるのです。

 

 不安に心が揺れ、苦悩から離れられない人生に、決して変わることのない安心をいただきます。

 

(住職)