大切な方がお亡くなりになったとき、現状では、まず葬儀社に連絡されることが多いようですが、お付き合いのあるお寺がある場合は、必ずその旨を葬儀社にお伝え下さい。
慌てることなく葬儀の準備を進めるために、事前にお寺に相談されるのも良いでしょう。
蓮正寺とまだご縁のない方のお通夜・葬儀もお勤めいたします。お気軽にご相談下さい。
また、お布施のことでご心配があるときも、お気軽にご相談下さい。
葬儀の前夜には、参列の人数に関わらず、通夜のお勤めが行われます。
通夜とは、文字通り、近親者や親しい知人等が「夜を通して」集い、亡き人を偲びつつ、阿弥陀仏の救いを味わう仏事です。
通夜のことを「夜伽(よとぎ)」とも言います。「伽(とぎ)」とは「お伽話(おとぎばなし)」の「とぎ」で、故人をまだ生きておられる方として、故人の話し相手をし、最後の看取りをさせてもらうのです。
亡き人が声なき声で語りかける人生最後のメッセージを心して聞き、送る方も、一番伝えたいことを亡き人に語るためにあるのが「夜伽」であり「通夜」です。
なぜ、通夜で読経するのかというと、その故人に代わって、僧侶が最後のお勤めをさせてもらうのです。そして、僧侶が勤めるお経や法話を聞くことで、阿弥陀仏の教えにあわせていただきます。
私たちは、かけがえのない人を亡くした時、心の中を様々な思いが駆けめぐります。
「どうして死んでしまったのか」「悲しい」
「悔しい」「残念だ」「かわいそうに」…。
それでも、とにかく葬儀は出さなければなりません。深い悲しみ等に沈んではいられないほど、次々と現実の問題が起こってきます。
どうか落ち度のないようにと思いつつ、親戚や友人・ご近所の方々の手を借りて葬儀は行われていきます。
残された遺族はもとより、お手伝いされる方や会葬される方の誰しも「鄭重に送ってさしあげたい」と思いながら葬儀を勤めていくのですが、ともすると葬儀の形のみに目を奪われて「仏事としての葬儀」という大切な意味を見失っているように思われます。
「葬儀の場」とは、
(1)先立たれた方とのご縁
(2)故人と出あった人々とのご縁
(3)仏さまとのご縁
が結びついている場です。そして、この三つのご縁が出あうところに、葬儀の宗教的な意味が生まれます。
「葬儀」は、ひとりの人間の死という事実を、私たち一人ひとりが自分自身の問題として受け止め、大切な方との死別という悲しみを通して自らの「いのちの問題」を仏さまの教え(仏法)に聞き、仏さまのお慈悲にあわせていただくご縁となります。
身近な人の死という悲しい事実を通して、「仏法」に出あっていく。自らの人生の依りどころを「仏法」に聞いていく。そこに「仏事としての葬儀」を勤めるということの意味があります。
このように、葬儀は亡くなった方のためだけのものではありません。遺族や親族をはじめ、友人・知人など残された方々のための儀式でもあるのです。
また、葬儀を通して、人と人との繋がりの中で、お陰さま、お互いさまで生きていることを再認識することができれば有難いことです。
近年は、ごく身近な親族だけで勤める葬儀が増えてきました。周りに気を遣うことなく、故人と最も縁のあった者だけで、静かに送ってあげようという気持ちも理解できます。
しかし、故人も生前、多くの方とのご縁があり、数々のお陰で人生を送られたということを考えてみることも大切ではないでしょうか。
葬送儀礼は、本来、通夜と葬儀の両方を勤めることで、故人をより丁重に弔い、お送りします。その時は、生前に法名をいただいていない方には法名を付与して、丁重に通夜・葬儀をお勤めします。
浄土真宗の法名は、宗祖親鸞聖人が自らを「釋親鸞」と名乗られて以来、「釋」の字を冠とし、これに2字を加えて「釋○○」とお付けします。浄土真宗では戒名とは申しません。
この「釋」の字は、仏教をお開きになった釋尊(お釋迦さま)の「釋」の字です。
法名とは、お釋迦さまの弟子(仏弟子)であることを表わす名前です。そして、南無阿弥陀仏(本願念仏)のみ教えを聞き、本願念仏を依りどころとして生きていく者としての名前です。
本来は、生前に京都・西本願寺(または全国の別院)で行われる帰敬式(おかみそり)で西本願寺ご門主から授与されるものですが、こうしたご縁がなく亡くなった方には、葬儀に先立って住職が西本願寺ご門主に代わって付与します。
葬送儀礼ですので、丁重に法名を付与して通夜・葬儀をお勤めします。
※浄土真宗のみ教えは、「みな等しく、ともにお浄土への道を歩ませていただく」という教えなので、法名には位は無く平等です。
ですから、正式には「釋○○」の下に「居士・大姉・信士・信女など」の位号は必要ありません。
尚、施主さまが希望した場合には、「釋〇〇」の上に、院号(「〇〇院」)をお付けすることができます。
「清め塩」は、現在ほとんどの葬儀で会葬者にお礼状と共に渡されています。そして、この「清め塩」で「お清め」することが当たり前のように行われています。
「清め」というからには、何かの「穢れ」を除くという意味があるのでしょう。そこには「死」を「穢れ」とする考え方が根底にあります。
家族や親戚や友人など、大切な方々の「死」を穢れたものとしてお清めするとしたならば、それは何とも悲しく痛ましい行為ではないでしょうか。
仏教では、決して「死」を「穢れ」と受け止めることはありません。そして「死もまた命のすがたである」と受け止めます。
必ず命終っていかなければならない私たちに、仏さまの救いが説かれているのです。
浄土真宗では「清め塩」は必要としません。