阿弥陀さまに抱かれて(118)

-9月の法話-

~西方浄土~

<見えない世界は信じられない>

 

 9月は秋彼岸の勤まる季節、仏さまが説いて下さった西方の浄土に思いを寄せ、仏さまの教えに耳を傾けます。

 

 あるご法事でのことです。住職さんがお仏壇の前に座ると、後ろの方からご婦人の声が聞こえてきました。「誰も極楽から帰って来た者はおらんわな。極楽というのはほんまにあるのか分からんわな。それをお坊さんはあたかもあるように話すよね」

 

 極楽(浄土)は目に見えないし、行って来た人もいない。また、科学的にその存在を証明することもできない。そうすると、現代の多くの人はそれを信じようとしません。

 

 

<仏さまの善巧方便(ぜんぎょうほうべん)>

 

 「世俗の君子幸臨し 勅して浄土のゆゑをとふ 十方仏国浄土なり なにによりてか西にある」

 「鸞師こたへてのたまはく わが身は智慧あさくして いまだ地位にいらざれば 念力ひとしくおよばれず」(親鸞聖人:高僧和讃)

 

 中国・魏の時代、時の皇帝が、高僧・曇鸞大師(476~542年)にお浄土のことを質問しました。「十方の仏さまの国はすべて清浄な浄土であるはずなのに、どうして西方のみを指し示して浄土があるというのか」

 

 それに対して、曇鸞大師は「私は仏になるべき智慧もない凡夫であり、いまだ菩薩の位に上っていないので、自分の力では仏さまの国を心に思い浮かべることが出来ないのです」と答えられました。

 

 善巧方便とは、仏さまの智慧のはたらきそのもので、さとりの世界を知らせるための巧みな手段、手立てを言います。

 

 仏さまは、智慧浅い愚かな凡夫である私たちのために、阿弥陀仏の救いによって生まれ往くおさとりの浄土が、夕日が沈みゆくあの西方にあるのだよと、説き示して下さいました。

 

 

<西方浄土に生まれ往く>

 

 私たちはこの世に生を受け、育ち成長します。一日に例えるならば、朝日が昇って、太陽が真上まで行って、その後は段々と陽が沈み、西の空の彼方に沈んで行きます。

 

 私の命も、生まれた時から一時も休まずに成長して来ました。そして、いつの時からか、老化という成長が始まりました。老化を成長と言い換えても、やがて間もなくやって来る最期があることを意識するようになります。夕日が沈んで行くのを、自らの命が終わっていく姿と重ね合わせることもできます。

 

 命終わった私はどこに行くのだろうか。南無阿弥陀仏の教えによって、自らの命の行く末が真っ暗闇の訳の分からない世界などではない、遥か夕日が沈んで行く阿弥陀如来の西方浄土に参らせていただくのだと、自らの命の行方の答えが与えられるのです。

 

 智慧浅い愚かな私に、凡夫の思いで浄土を思えるように、西の方はるか彼方に浄土があるのだと、わざわざ方向を示して、私のために説かれているのです。

 

 お浄土は、自分の力でさとりを開くことの出来ない私のために、阿弥陀仏がご用意下さった、私が阿弥陀仏に連れられて、おさとりの仏に成らせてもらうところです。

 

(住職)