阿弥陀さまに抱かれて(117)

-8月の法話-

~いのち~

<因縁生(いんねんしょう)>

 

 命というと、何か固定的なものとしてあるように思われますが、命とは、固定(実体)的なものではなくて、因縁生すなわち縁起的なもの、関係性によって存在しているのです。

 

 私がこの世界に生まれて来たのは、私の力ではありません。父と母を縁として、すなわち父と母との関係性によって生まれて来たのです。父と母にもそれぞれ父と母がいて、その前にも父と母がいて…。こう考えてみると命のご縁は、はかり知れないものだと分かります。また、生まれて来てから多くの恵みというご縁によって、育まれ支えられている命です。

 

 また、命を考える時「生きていることだけが命だ」と考えるかもしれませんが、死もまた命の姿です。仏教に生死一如(しょうじいちにょ)という教えがあります。生と死は、別々に離れてあるのではなくて、ちょうど紙の表と裏のような関係であるということです。生があるから死があり、死があるから生があるということです。生と死、二つで命です。

 

 私たちは、命を実体化して見て、それを数字で測って、長いとか短いとか、良いとか悪いとか、上とか下とか言って、自分で苦しみを作っているのです。これらのとらわれを離れるところに安心があるのだと、仏さまは教えて下さいます。しかし、自分のはからいでとらわれを離れることはできません。仏さまの教えを聞くことによって、仏さまがそのとらわれを取って下さいます。

 

 

<生・老・病・死>

 

 この世に生まれて来たら、必ず年老い、病をし、死んでいきます。老病死は特別なことではなく、自然な出来事です。しかし、私たちは中々そのように見ることができません。

 

 今日、日本は長寿社会になりました。長寿は有難いことですが、それで本当に心豊かになったかと問われると、どうでしょう。命は長いことこそが一番の幸せであるかのごとく、長寿ばかりにとらわれ、苦しんではいないでしょうか。

 

 生死一如の命です。いつ、生と死の紙の表と裏がひっくり返るか分かりません。いつ命終わるか分からない命です。このことを、本願寺第8代御門主の蓮如上人が『御文章』に「されば朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり」とお示しです。

 

 年取る、病にかかる、死ぬ、それらはみな自然なことなのに、老いない、健康なのが当たり前で病気するのはめったにない、長寿が当たり前で死ぬことはあってはならないことだと思っていると、「こんなはずではなかった、もっといい人生があったはずだ」と生き、死んでいかなければなりません。

 

 

<いま、浄土に生まれる身に定まる>

 

 この老病死の問題を超え、本当の安らぎを与えて下さるのが仏教です。私は、これを阿弥陀仏の救いに聞いています。

 

 『仏説無量寿経』に、阿弥陀仏の救いが説かれています。阿弥陀仏がまだ法蔵菩薩という菩薩さまであった時、五劫という長い時間をかけて考え抜き、「老病死に苦悩する者を必ず浄土に救い取り、おさとりの仏にしたい」という願いを立て、「この願いを成就できなかったら阿弥陀仏と名乗らない」と誓われました。そして、兆載永劫(ちょうさいようごう)という長い時間をかけて修行をし、ついに阿弥陀仏と成られたのです。この全体が、いますでに「南無阿弥陀仏」という声の姿ではたらいています。阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏」とはたらいているのです。

 

 この「南無阿弥陀仏」のおいわれを聞き入れた時、必ず浄土に生まれ、仏に成る身に定まります。老病死の苦が無くなってしまうわけではありませんが、浄土に生まれる身に定まると、老病死が受け容れやすくなります。いつまで経っても死にたくはないでしょう。でも、死を受け容れることができれば、楽に生きて行けます。

 

 老いも病も思い通りにはなりません。また、私の力で思い通りに死を決められるものでもありません。この世の縁が尽きた時、命終えるのです。

 

 「なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをわるときに、かの土へはまゐるべきなり」。親鸞聖人のお言葉です。

 

 命終わったその時には、浄土に参り、おさとりの仏に成ります。安心です。

 

(住職)