阿弥陀さまに抱かれて(115)

-6月の法話-

~浄土真宗のご利益(りやく)~

<一般的なご利益>

 

 一般的にご利益というと、神さまや仏さまを信じることによって、または神仏に祈ることによって自分の望む状況、状態が得られるということです。信じること、祈ることを手段として、自らの望みを叶えるという目的を得るというのが、宗教のご利益であると考えられています。これは、手段を尽くして目的を得るという、私たちの考え方に合っていますので、よく理解できます。

 

 数ヵ月前、長野の善光寺のビンズル尊者のご木像が盗まれたが、無事に帰ってきて事なきを得たという事件がありました。このご木像にはご利益があるとのこと。どんなご利益かというと、自分の具合の悪い部位と、このご木像の同じ所をさすると、具合の悪いのが善くなるというご利益だそうです。これも、ビンズル尊者のご木像をさすって、祈ったり願ったりすることを手段として、ご利益を得るというものです。

 

 

<米と藁(わら)>

 

 しかし、浄土真宗の教えはこれとは違い、信心・信仰を手段として、ご利益を得るというものではありません。

 

 浄土真宗のご利益を説明するのに、よく米と藁の譬喩が用いられます。米を作るという目的のために、まず苗を育て、苗を田に植え、そして田の水の調整とか、虫がつかないようにとか色々と管理をし、また自然の恵みを得て、秋になると稲穂が茂り米ができます。そして米が成ると、それに伴って藁がついて茂ります。米を作るという目的を得た時に、それに伴って藁が付いてくるのです。

 

 このように、浄土真宗のご利益は、目的を得たところに具わるものなのです。

 

 

<他力の信心が目的>

 

 信心は手段ではありません。信心を得ることが目的なのです。この目的を得たところに、自然とご利益が具わるのです。

 

 信心とは、阿弥陀仏の方からこの私に「南無阿弥陀仏とは何なのか」を聞かせ、自力のはからいを取って下さった、南無阿弥陀仏の救いにまかせたすがたです。これを、阿弥陀仏が与えて下さる他力の信心といいます。

 

 南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が「あらゆるものを救いたい」という願い(本願)を成就したはたらきです。この南無阿弥陀仏をいただいた(他力の信心をいただいた)時、現生では、「必ず浄土に生まれ、おさとりの仏になる身に定まる」というご利益が具わるのです。ですから、命終わったその時には、お浄土の仏さまです。

 

 必ず命終わって行かなければならない身が、必ずおさとりの仏になる身に定まるのです。これ以上の安心はありません。他力の信心を得た時、決して壊れることのない安らぎを得るのです。

 

(住職)