如来さまとともに(51) -2月の法話-

~仏に成る人生~

 「人生は苦なり」というお釈迦さまの言葉があります。ご存知の方も多いでしょう。この「苦」という言葉はサンスクリット語で「ドゥクハ」というのですが、その意味は苦しみ、悩みの他に「思い通りにならない」という意味があります。そして、この場合「苦」とは、「思い通りにならない」ということです。ですから「人生は苦なり」とは、「人生は思い通りになりません」という意味になります。そうすると、よく頷けるのではないでしょうか。

 では何故、思い通りにならないことが苦しみなのかというと、思い通りにならないことによって苦しみが生じるからです。思い通りにしたいという心が苦の原因になるのですから、思い通りにしたいという心を無くせばいいのですが、私たちにはそれができません。ですから、苦は絶えないのです。

 そして、その思い通りにならないことの代表、苦しみの代表が、生(しょう)・老・病・死の四苦です。生は生れるということですが、生がなぜ苦となるのかというと、生れたら必ず老・病・死があるからです。老も病も、死につながった時に、より強い苦となります。死が根本的な苦です。ですから、この問題が解決されれば、大きな安心が得られます。そこに宗教というものの本義があります。仏教では死の問題をやかましくいいます。それは今が大切だからです。この今、ただ今の人生が大切だからです。生きるということと死は切り離しては考えられません。生きるということと死は、ちょうど紙の表と裏の関係のようなもので、生と死、二つで一つが命のすがたです。

 死んでいくとは、どういうことなのでしょうか。死ぬということですべてが終わりだとなると、いま生きていることだけに価値を求め、そのことに執着することになる。そうではなく、死んでいく世界があれば、死は終わりではなくなり、死の意味が変わります。またそのことによって、人生の意味も変わります。死を死として受け入れることができれば、そこには大きな安らぎがあり、それは幸せなことです。

 この人生はせいぜい百年の間だが、私の存在そのものには始まりがない。仏教の話が世間の話と根本的に違うのはここです。世間の話では、皆この世に生れてきたところ(あるいは、母親のお腹に宿ったところ)から始まり、死んで終る。誕生の前の自分なんか考えられないから、むろん死後のことも考えられない。

 仏さまは、この私という存在は遥か遥か昔から生れては死に、生れては死に、生死、生死という迷いを繰り返して来たのだと教えて下さいます。そしてこの度、人間に生れて来たのだと。しかしまた、必ず命終っていかなければならないが、その時にまた迷いを繰り返すのか、それとも迷いを離れておさとりの仏と成るのか、それが死の問題であると教えて下さいます(浄土真宗ではこれを「後生の一大事」といいます)。迷いを離れ、おさとりを開かれた仏さまが、仏に成ることが本当の幸せなのだと教えて下さるのです。

 『仏説無量寿経』というお経に、生死、生死の迷いを重ね、苦悩を抱えて生きているあらゆるものを仏にしたいと願い、はたらいている仏さまがおいでだと説かれています。その仏さまを阿弥陀如来といいます。阿弥陀如来は、あらゆるものをおさとりの仏にするために願いを立て、永い永い間修行をして、その願いを完成されました。その完成されたすがたが「南無阿弥陀仏」なのです。その中に、私たちがおさとりの仏に成れる功徳をすべて込められて、南無阿弥陀仏と私たちの口に称えられるお念仏となって届いているのです。

 南無阿弥陀仏のおいわれ(意味)を聞いて、その救いを受け入れた時に「仏に成る」身にさせてもらうのです。お浄土に生れ仏に成る人生の始まりです。それは、死んで終りの人生ではなく、「お浄土」という死に往くところをいただいた人生です。そこに死の問題の解決があります。

(住職)