如来さまとともに㊻ -9月の法話-

~目は確かなもの?~

 「目に見えない仏さまって本当に存在するのですか?」「目に見えない仏さまは信じることはできない」。特に現代社会ではよく聞くことです。

 それは、私の目は確かだ、私の目に見えないものは確かではない。私は確かだ、私に認識できないものは存在しない。このような考え方の中で、上記のようなことが言われるのでしょう。しかし、「私たちの目は当てにならない」と教えるのが仏教です。

 例えば、私たちが住んでいる世界を世間と言います。私たちが見えている世界を世間と言います。この「世間」という言葉は元々仏教の言葉です。世間は、インドのサンスクリット語で「ローカ」と言います。このローカとは「壊れゆくもの」という意味です。それはどういうことかというと、私たちが見えているものは、刻々と変化していて、最後には必ず壊れ去っていくものだということなのです。ですから、私たちが見えている世界の中には、永遠なるものは一つも無いということです。私たちは、この見えている世界の中にこそ、これさえあれば大丈夫なのだというものを探そうとしていますが、この中には、末通った真実の依りどころは無いのです。このことを仏教は教えています。

 例えば、お金や財産。これも永遠なものではありません。私たちの身体も、健康も刻々と移り変わっていて、最後には壊れていきます。私たちの住んでいる家もいつかは壊れます。このような中で、本当に末通った、決して壊れることのない、私たちを支え続けることのできる真実の依りどころとは、何なのでしょうか。このことが、仏教が教える最も大切なものです。

 仏さまは、はたらきです。それは、私たちをお悟りに導こうとする真実のはたらきです。真実とは、嘘偽りが微塵もない、永遠で普遍的なものです。

 仏には、真実という意味があるのですが、お釈迦さまは、永遠の過去からはたらき続けている仏という真実を悟られて仏になられ、仏教を開かれたのです。ですから、仏教があって、仏さまが存在するのではなく、仏さまが存在するから仏教があるのです。仏教が開かれたということは、仏さまがはたらいているという証です。経典も仏さまがはたらいているすがたです。お寺の存在も、仏さまがはたらいているすがたです。仏法(仏教)を伝えている人の姿も、仏さまのはたらきであり、仏法を喜んでいる人の姿も、仏さまがはたらいているすがたです。

 例えば、この世界に吹く風は見えません。しかし、木の葉っぱがそよいでいるのを見て、風が吹いていることが分かります。仏さまも色々なすがたとなってはたらいているのです。

 「煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねに わが身をてらすなり」(親鸞聖人・高僧和讃)

 〔煩悩に眼がさえぎられて、おさめ取って下さる如来の光明を見ることができないけれども、大慈悲心は怠ることなく、常に私の身を照らしているのである〕

 煩悩具足と言われる、煩悩を欠け目なく具えている私たちの目では、真(まこと)なるものを見ることはできません。しかし、仏さまの智慧と慈悲は、常に私たちにはたらきかけています。

 私たちの浄土真宗の依りどころとする仏さまは、阿弥陀仏という仏さまです。阿弥陀仏のはたらきは、自分の力では決して悟りを開けない煩悩具足の私たちを、お悟りの世界に導こうとはたらき続けている、限りない智慧と慈悲のはたらきです。では、その阿弥陀仏はどのようなすがたで私たちの世界ではたらいているのかというと、それが「南無阿弥陀仏」という私たちの口に称えられるお念仏なのです。阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏という声の姿となってはたらいて下さるのです。南無阿弥陀仏が仏さまです。南無阿弥陀仏は、私たちを救おうとするはたらきそのものです。南無阿弥陀仏は、苦しみ悩みながら生きている私たちを根底から支え続けようとするはたらきなのです。

 南無阿弥陀仏と称えるところに、仏さまの存在を知らせてもらいます。仏さまは、永遠の昔からはたらき続けている真実そのものなのです。

 私たちの目が確かで、仏さまは確かではないのではなく、仏さまが確かで、私たちの目は確かではないのです。謙虚に仏法に耳を傾けるところに、仏さまのはたらきを知らせてもらうことができるでしょう。

(住職)