如来さまとともに㊺ -8月の法話-

~死んだらお終い?~

 「死んだらお終い」とか「死んだら何にもなくなる」という言葉をよく聞くように思います。また、逆に「死んだら霊魂というものだけが残るんだ」ということも聞きます。本当に「死んだらお終い」なんでしょうか。本当に「死んだら何にもなくなる」のでしょうか。また、「死んだら霊魂だけが残る」のでしょうか。しかし、それらはどちらも、人間が勝手に決めていることではないでしょうか。そこには、安らぎはないでしょう。

 死後のことは誰にも分かりません。だから、死ぬということが不安なのです。そのことを解決できたら、心の底に安心が恵まれます。

 仏教は、死ぬことの問題を、おさとりを開き、あらゆるものをありのままに見抜く智慧を得られた仏さまに聞いていくのです。仏教は、死の問題の解決を説く教えです。

 江戸時代の中頃、寛永年間(1750年頃)石見の国(現在の島根県西部)に、石橋寿閑と錦織玄周という医師がいました。この二人は友人でした。玄周は、仏さまの教えをよく聞き、南無阿弥陀仏の教えをとても喜んでいました。しかし、寿閑はどうかというと、まったく仏教に批判的で、仏教なんか自分には必要ないという人でした。ある年、玄周が寿閑の住んでいる高見村という所に用事があり、寿閑の家に一晩泊めてもらうことになりました。

 仏さまを大切にする玄周は、まず仏さまにお参りしようと思い、仏間の場所を尋ねました。すると寿閑は「家には仏壇なんかない。地獄、極楽は坊さんが勝手に言っていることで、学問をした医師が取り扱うものではない」と言いました。玄周は「このように仏縁のない人もいるのか。私はなんと幸せ者か」と思い、念仏して寝ました。

 3年後、再び用事があって高見村に来た玄周が寿閑を訪ねました。今度は挨拶だけで帰ろうとしたところ、寿閑は「是非上がれ」と言って、以前はなかった大きな仏壇の前に案内しました。玄周が驚いて事情を尋ねると、寿閑は次のようなことを話したのです。

 寿閑には寵愛する娘がいました。ところが、その娘が昨年病にかかり、6歳で亡くなったというのです。死を間際に控えた娘が「父さま、私は死んだらどこに行くのですか」と尋ねました。仏教を聞いていない寿閑は困りました。どう答えていいか分かりません。しかし、娘の顔を見ると、とても苦しそうに、不安そうにしています。そこで娘の心を安らかにしようと、とっさに「死ねば極楽という結構なところに行く」と思ってもいないことを言いました。するとさらに「どうすれば極楽に行けますか」と娘が尋ねました。また困った寿閑は、その時玄周から聞いていたことを正確ではありませんが、うろ覚えで「手を合わせて、南無阿弥陀仏と言えば行くことができる」と言いました。すると娘は「それは有難い」と言って、それから一心に念仏して命終えていったとのことです。

 このことが縁となり、さすがの寿閑も、娘のためにという思いでお寺にお参りするようになりました。一座、二座……と聴聞を重ねていくうちに、如来さまのお慈悲に出遇い、南無阿弥陀仏の救いに出遇いました。難しい修行や自分の称える念仏の力で往生しようとしてもできるものではなく、ただ南無阿弥陀仏のはたらき一つで浄土に行き、おさとりの仏にならせてもらうのだと知らせてもらいました。

 そういうことがあって、寿閑は立派な仏壇を具え、ご本尊をお迎えしたのです。そして、寿閑は「いまや玄周さんと一味の信心を得ました」と言い、3年前の非礼を涙ながらに詫びました。

 寿閑は娘に尋ねられて、思ってもいないお浄土のことを話しましたが、娘は親の教えを有難く受けとめて、一心に念仏して亡くなっていきました。寿閑は娘のためにと思って聴聞を重ねることによって、阿弥陀仏におまかせして生きる道を知らされました。

 「先立つわが子は善知識」という言葉があります。善知識とは、私を仏法に導いてくれた善き人ということです。寿閑にとって、お浄土は亡き娘を縁として知らされた世界であり、6歳でお浄土に参った娘が善知識でした。しかし、善知識は、先立った子ばかりではありません。私たちには多くの善知識がいます。

 8月はお盆の月です。盆会(ぼんえ)のことを、浄土真宗では「歓喜会(かんぎえ)」といいます。先に亡くなっていかれた大切な人、身近な人、またご先祖を縁として喜びをいただく法会(ほうえ)ということです。ご先祖のご恩を偲ぶ中、残されたものが安らぎと喜びを持てる人生にしていくことが大切でしょう。

 浄土真宗というみ教えは、私を仏にしようと今すでに届き、はたらき続けている南無阿弥陀仏を依りどころとして、今日を、今を大切に生きていくという教えです。

 「死んだらお終い」という人生と、「浄土に行き、仏さまになる」という人生では、いま生きている人生の意味が全く違います。

(住職)