如来さまとともに㊽ -11月の法話-

~思い通りにならない~

 「人生は苦なり」というお釈迦さまの言葉があります。この「苦」は、サンスクリット語「ドゥクハ」の訳で、その意味は「思い通りにならない」ということです。ですから「人生は苦なり」とは「人生は思い通りにならない」ということです。本当に思い通りになりませんね。そして、思い通りにならないと、その原因を自分の方にではなく、自分の外に求めることが多いですね。

 我妻弘(1927~1985年)という文化人類学者で、筑波大学の元教授であった方が、今から30年以上前に、このようなことをお書きになっているのをある本で見ました。

 「地球上のどんな民族でも、経済的に豊かになると、物の感じ方に種々の弊害が出る。その一つとして人は外罰・他罰的になる。他罰的とは、失敗の原因を外に求めることである。町中で幼児がドブに落ちる。初めは親の不注意を悔いるが、次に思うことは『こんな町中のドブにフタをしない行政の怠慢』を責める。学校でも先生の監督責任を責め、心の荒廃を教育制度の不備に求める」

 これは、現代社会でも当てはまります。都合の悪いことは、人のせいにする。そうした風潮が蔓延し、日本人の心に闇を作っているようです。

 確かに、環境を整えることはとても大切なことです。今、特に問題となっていることは、保育園が足りない、介護施設が足りない。これは本当に早く解決しなければならない問題です。そのために、行政の方には責任があり、努力してもらわなければなりません。

 仏教は、苦しみの根本原因は自分にあるのだと教えます。環境は縁(きっかけ)です。苦しみの縁となる環境は、減らし整えていかなければなりません。しかし、思い通りにならなくて怒ったり、不平が出てくるその根本の原因は、思い通りにしたいという思いがあるからです。そして、思い通りにしたいという心を、私たちは無くすことはできません。そのため苦しみが絶えることはありません。そのことを照らし、知らせて下さるのが、仏さまの智慧のはたらきです。そのような心から離れられないということを知ることは大切です。それによって怒ったり、不平不満が絶えない自分を、仏さまの眼を通して見ることができます。そこに、一呼吸おいて、自分の姿を客観的に見ることができるのではないでしょうか。

 ここで、人生そのものにおいて思い通りにならないことに目を向けてみたいと思います。その代表は生(しょう)・老・病・死です。これを仏教では四苦といいます。生れるということは思い通りになりません。歳をとるということも、誰も年老いたくありませんが、必ず老いていきます。病気もしたくありませんが、色々な病気や、そして死につながる病気をします。最後に、死ぬということ、これが一番嫌なことです。しかし、必ず命終っていかなければなりません。この死ということが人生の根本の苦です。そして老・病・死の根本原因は、生れて来たこと、すなわち生(しょう)にあるのです。

 この四苦の他にも、愛別離苦という苦があります。これは、愛する人、大切な人と別れなくてはならないという苦しみです。この苦しみは、最も心をかきむしるような辛い苦しみだと言われます。四苦に愛別離苦を加えて五苦といいますが、この愛別離苦も根本には死苦があります。

 仏教は、これらの苦しみの解決を説くものです。その根本をなすものは、死苦、すなわち死の問題です。この死の問題を解決できれば人生が変わります。死の問題とは、命終った私がどうなるのかという問題です。このことを仏さまに聞くのです。

 この死の問題の解決、これを仏さまの教えに聞いていかれた親鸞聖人が、阿弥陀仏の救いを伝え、説いて下さいました。阿弥陀仏のはたらきによって、あらゆるものが浄土に往き、おさとりの仏に成れる道があるのだと教えて下さるのです。そして、その阿弥陀仏のはたらきは、今すでに南無阿弥陀仏のお念仏となって届いているのです。南無阿弥陀仏は阿弥陀仏の喚び声です。「あなたを仏にする仏が今ここにいるよ」という喚び声です。南無阿弥陀仏のいわれを聞き、その喚び声をこの身にいただいて、南無阿弥陀仏と称えつつ生きて行くのです。おさとりの仏にならせてもらうお浄土への人生を送るのです。苦悩がなくなるわけではありませんが、心の底に安心があります。

 自分の都合だけで物事を考えると不平不満が絶えません。自分の思い通りにしたいという思いだけで送っていく人生と、人生は自分の思い通りにはならないのだということを知り、それを受け入れていく人生とでは、その心に大きな違いが出てくることでしょう。

(住職)