如来さまとともに(73) -12月の法話-

~お慈悲の仏さま~

 慈悲の「慈」は、サンスクリット語の「マイトリー」です。マイトリーとは、「見返りを求めない心」という意味です。人間関係はすべて、見返りの中で成り立っています。例えば仕事と給与、贈り物の交換、男女の恋愛関係等々。私たちの世の中で、一つだけ見返りを求めないものがあるとすれば、それは子に対する親、特に母親の心です。

 「悲」はサンスクリット語の「カルナー」です。カルナーとは、「相手の痛みを我が痛みとする心」です。私たちは他人の痛みを自分の痛みとすることはできません。人の悲しみを見て、その時は心の底から泣いたとしても、その内、その悲しみは薄れ、忘れていきます。しかし、その中でたった一つ、子の痛みを親は自分の痛みのように感じます。子どもが苦しむ姿を見たら、親は我がことのように悩みます。

 仏さまの慈悲に近いのが、母親の愛です。その愛は、子どものためには、自分より子どものことを先にするものです。ですから、仏さまの慈悲を譬えるのに、よく母親の慈愛を出してきました。

 しかし近年、慈愛の足りない母親が増えてきているようです。子どもの痛みを分からず、上から目線で「あんたダメだね、それじゃダメよ、もっと頑張りなさい」とばかり言って、子どもの痛みを分かろうとしないお母さんです。

 ここで例え話をします。

 小学5年生の子どもが、1学期の終業式が終って、体育と図工が2、他はオール1の通知表を持って帰ってきました。

 慈愛の足りない母親

 「ほら、通知表を見せてごらん。まー、ほとんど1じゃない。お飾り程度に2が二つあるだけ。あー情けない。お母さんがいつも少しは勉強しなさいと言っているでしょう。でも、あんたはいつもテレビを見るかゲームばっかりして、少しも勉強しようとしない。ちょっと机に向ったかと思うと、教科書じゃなくてマンガを読んでいる。2週間前、親子面談の時、担任の先生が、あんたのテストの成績を見せて『この点数じゃ、もっと頑張った方がいいですね』と言ったでしょう。あの時、お母さんは穴があったら入りたいくらい恥ずかしかったのよ。情けない。本当に悪いところだけお父さんに似て」

 お母さんの気持ちも分からないではないですが、頭が悪いのを叱りつけても、急に成績は良くなりません。本当に慈愛のあるお母さんだったら、子どもを叱る前に、成績の悪い通知表を持って帰ってくる子どもが、先に情けないと思っている心を知っているでしょう。

 慈愛のあるお母さんだったら、申し訳なさそうに帰って来た子どもに、

 「どうしたの、そんなに下を向いて。通知表を見せてごらん。あら、1本線が並んでいるね。アヒルさんも2つあるね。大丈夫、大丈夫。お母さんは何ともないよ。だから安心しなさい。あんたを頭の悪い子だと笑う人がいても、お母さんがいるから大丈夫。あんたがこれから成長していく中で、もし大きな過ちを犯して世界中の人があんたを指さし、つまらん子だと笑う日が来ても、安心していいよ。お母さんはいつもあんたの味方よ。あんたを決して見捨てないよ」

 こんなことを言うでしょう。子どもは、どちらのお母さんの方が安心でしょうか。

 仏さまの慈悲に対比されるものとして、人間の愛があります。人間の愛は、我が心に順うものは愛しますが、背くものには憎しみを抱きます。また、愛が深ければ深いほど、裏切られた時の憎しみも深くなります。

 それに対し、阿弥陀仏の慈悲は、背かれても、逃げられても、相手の立場・態度がどうあろうとも、それを認めていく。そのすべてのものを引き受けていくという心です。人は人の過ちを責めますが、仏さまは責めません。

 慈悲の仏さまは、私たちに生き方を告げません。罪を告げません。生き方に悩んでいる人に生き方を告げても解決にはなりません。余命の宣告を受けた人に、死が間近な人に、生き方を告げても救いにはなりません。また、罪深い人に罪を告げても、何の安らぎを与えることはできません。

 阿弥陀仏は慈悲の仏さまです。慈悲は無条件で、一方的です。阿弥陀仏は、男女・老少・善悪、あらゆるものをそのまま抱き取って下さる仏さまです。私たちはみんな、阿弥陀仏のお慈悲に無条件に包まれているのです。そのはたらきは「南無阿弥陀仏」の声の仏となって今はたらいています。「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」阿弥陀さまのお慈悲の中です。

(住職)