如来さまとともに(58) -9月の法話-

~諸行無常~

 お釈迦さまは、おさとりを開かれて仏となられました。おさとりを開かれたとは、この世界の真実なるすがたを正しく見抜かれたということです。そのおさとりの内容の一つに、「諸行無常」というものがあります。

 諸行無常とは、この世界のあらゆるもの、すなわちあらゆる存在、あらゆる現象は刻々と変化し、最後には壊れ去るものばかりだということです。永遠なるものは何一つとして存在しないのだということを教えるものです。

 しかし、私たちは物事をそのように見ることができません。頭では理解できたとしても、永遠とは言わなくても、長く変わることなく続くものが、たくさんあるように思ってしまいます。例えば、現在健康であるならば、その健康は長く続くだろう、長く続くのが当たり前だと考える。また、命も長く続くのが当たり前なのだと思います。男女の愛情も同じ状態で長く続くであろうと願います。

 自分に好ましいものは、変わらず長く続いて欲しいと願うのが私たちの常です。逆に自分に好ましくない状態、激しい苦しみや悩み、深い悲しみなどは、このまま変化することなく続くのではないかと不安になります。そこに苦悩が生じます。

 また、好ましい状態が変化し、壊れてしまった時、「こんなはずじゃなかった」と苦しんだり悲しんだりします。

 しかし、私たちは諸行無常ということが見抜けず、この世界の中にこれさえあれば大丈夫だというものをつかもうとします。例えば、お金(財産)とか愛情、またこの身体に身に付いた名誉・地位・教養など、どれも大切なものばかりですが、すべて移り変わっていくものばかりです。

 『仏説無量寿経』というお経の中に「世の人、薄俗にして不急の事を諍ふ」というご文があります。不急の事とは「まず一番に急がなくてもいいこと」ということです。しかし、私たちは、その急がなくてもいいことを、これ先にと争って行っていると示しているのです。

 例えば健康。健康であることはとても大切で、有難いことですが、ただ健康でさえあれば幸せだとばかりに、健康が人生の目的のようになってはいないでしょうか。また、お金さえあればと、他と争ってお金儲けばかりに精を出す。地位や名誉を得ることに執着する。しかし、これらも真の依りどころにはならないのだと、仏さまは教えて下さいます。

 この諸行無常の世界の中で、何が真の依りどころとなるのかを仏教は説いているのです。私たちの人生で、分かっている事が二つあります。それは、人間は必ず命を終えるということと、そしてそれがいつか分からないということです。だからこそ、まず死の問題を解決することが大事であり、「まず死の問題を解決してから人生を送らないか」と仏さまは教えて下さっているのです。死の問題の解決とは、命終わった私がどこに行くのかを知らせてもらうということです。

 真の依りどころとは、死の問題に対した時に、また健康が壊れ死に直面した時に、決して変わることなく支え続ける依りどころとなるものです。大切な家族の愛情も、財産や地位や名誉や教養・知性も、医学や科学も、死の問題に対しては間に合いません。

 仏さまは、真の依りどころを「南無阿弥陀仏」だと説いて下さいます。南無阿弥陀仏は、私たちをお浄土に行き、おさとりの仏になる身に、この人生において決定して下さるはたらきです。南無阿弥陀仏のはたらきで、命終わった私はお浄土に行き、おさとりの仏になる。南無阿弥陀仏は、‟いま”この私を、必ず仏になる身にすることで、死の問題の解決をして下さるのです。仏さまは、まず死の問題を解決して、大きな安心を得て人生を送る道を与えて下さいます。

(住職)