如来さまとともに(56) -7月の法話-

~お陰さまの心~

 近年、お陰さまの心が失われてきたように思われます。それは、現代社会において宗教性あるいは宗教心がとても稀薄になっているのと関係しているのではないかと考えられます。

 この宗教性の稀薄化の要因の一つに、現代社会が宗教的心を起こさせる環境がとても稀薄になってきたということが挙げられると思います。近年の科学技術や医療技術の進歩は目を見張るものがあります。科学技術の長足の進歩によって、生活は便利になり、快適になり、豊かになりました。また、現代社会には楽しいことがたくさんあります。例えば観光旅行、スポーツなどのレジャー、テレビや映画など数え上げればきりがないほどです。それはそれで良いことなのでしょうが、しかし、物事には表と裏があります。プラスの面もあれば、マイナスの面もあります。

 例えば、科学の進歩のプラス面として、今までできなかったことができるようになり、これまで解らなかった多くのことが解明されました。また、便利で快適な、豊かな生活が送れるようになりました。しかしその反面、マイナス面もあります。それは、何でも解るから、解らないものはないという憍慢な心。そこから科学、また人間の知力は万能であるという考え方が生じてくるのではないでしょうか。また、昔の人々よりも現代の人間そのものが進歩したという錯覚ともいえる考えがあるのではないでしょうか。しかし、いくら科学が進歩しても、人間の根源的な問題は、昔も今も同じで変わりません。その代表が、老病死の問題であり、決して煩悩を離れられないという煩悩具足という人間性の問題です。

 次に、医療技術の進歩によるプラス面としては、これまで治らなかった病気が治るようになり、それにより長生きできるようになりました。また、健康が増進され、豊かな生活を送れるようになりました。しかしその反面、医療技術の進歩により、死というものが遠くになり、それと共に、死という問題を遠ざけようとし、死の問題を考えることがなくなってきているように思われます。そこに宗教性の稀薄化ということが出てきているのでしょう。

 元来、科学と宗教は、その領域とするところが違います。科学は、人間の知識で実証されるものが対象であり、人間の知識の対象になるものについての問題です。それに対し、宗教は、人間の知識の対象にならないものを問題とします。例えば、如来や浄土とか、また成仏とかの問題です。科学では宗教的な問題は解決できませんし、宗教では科学的な問題は解決できません。

 そもそも、生きるということの根源は、いたって宗教的な問題です。生きるということは「お陰さま」です。まず、父や母によって産んでもらい、育ててもらう。そして、多くの人との関わりの中で育てられていきます。また、自らの命を維持するためには、多くの命あるもの、牛や豚や鶏や魚、また野菜等の命を頂いています。社会の中では、支えたり支えられたり、お互いさまの生活です。

 そして、いま生きているということの根底には老病死という苦を抱えている。その老病死の苦の解決を説いて下さるのが仏教です。生まれ、生きているということは、必ず命終っていかなければならないということです。このことが私たちの根本的な宗教的問題です。この問題を解決することが、本当の安らぎにつながり、そこにお陰さまの世界が広がってくるのだということを、仏さまは教えて下さっています。

 阿弥陀仏はあらゆるものを仏にしたいと願い、その願いが完成して、南無阿弥陀仏となってはたらいていて下さっています。多くのお陰さまの中で生かされて、命終った時はお浄土の仏さまです。これ以上のお陰さまはありません。

(住職)