如来さまとともに(60) -11月の法話-

~お慈悲の仏さま~

 阿弥陀仏はお慈悲の仏さま、逆らう者を捨てない仏さまです。

 『かあさんの歌』という歌があります。最近はあまり耳にしませんが、昔はよく流れていました。その一番の歌詞は次の通りです。

 

  かあさんが夜なべをして 手袋編んでくれた

  木枯らし吹いちゃ 冷たかろうて

  せっせと編んだだよ

  ふるさとの 便りはとどく いろりのにおいがした

 

 この歌の作者は、高校卒業の時、進路を巡って母親と対立したことから、家を飛び出したのだそうです。そして、そのまま消息不明になってしまいました。母親は心配しました。それから何日も何日も、色々なつてを頼って息子を探し回りました。そして、数ヵ月後やっとの思いで息子の居場所を突き止めました。それから母は、息子の身を案じて衣類や食べ物、ビタミン剤などを時々小包にして送ったのだそうです。そしてある時、その小包の中に手袋が一つ入っていたのです。

 そうした中から生れたのが、この『かあさんの歌』です。親に逆らう子を捨てられないのが親の心でしょう。いや、逆らう子だからこそ心配でならないのが親の心です。

 「木枯らし吹いちゃ冷たかろう」と息子のことを案じて、あかぎれの手で夜通し囲炉裏の傍で編んでくれた手袋。その手袋には、息子を思う母親の思いがこもっています。街で売っているようなスマートで綺麗な手袋ではないのかもしれません。しかしその手袋には、お金では買えない親の思いが、囲炉裏の匂いとともにこもっています。

 私たちのすがたを省みた時、私たちは元々仏さまの心にしたがったものであるか、決してそうとは言えません。「仏教なんかいらない。仏教なんか聞いても何にもならない」という仏教を否定する言葉はよく聞かれます。「目に見えない仏さまなんか信じられない」という声も聞きます。これは、仏さまに逆らっているすがたです。

 私たちの浄土真宗で最も尊ぶ仏さまを阿弥陀仏と申します。この阿弥陀仏は、その大きな慈悲の心で、仏さまに逆らう私たちを決して責めることなく、見捨てることがありません。その阿弥陀仏の慈悲の心は、「南無阿弥陀仏」となってはたらき続けているのです。

 遥か遥か昔から、数限りない仏さま方が、「あなたを救う南無阿弥陀仏という仏さまがいらっしゃいますよ。その尊い南無阿弥陀仏のおいわれを聞きなさい」と説き続けて下さいました。でも、私たちは南無阿弥陀仏の教えに耳を傾けようとしなかったのだと、仏さまが教えて下さっています。しかし阿弥陀仏は、逆らう私たちを決して見捨てることはありませんでした。もし、縁あって南無阿弥陀仏のおいわれを聞き、南無阿弥陀仏をいただく身になることができたならば、それはそれは有難く尊いことであり、人生に大きな安心を得ることができます。

 「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」(親鸞聖人『教行信証』)

 行信とは、南無阿弥陀仏のことです。宿縁とは、仏さま方の私たちを南無阿弥陀仏の教えに導くためのはたらきです。

 私たちの長い長いいのちの歴史に、阿弥陀仏が南無阿弥陀仏となって、ずっと届いていて下さいました。そしてまた、数限りない仏さま方のお育ての中の、いのちの歴史であったのです。

 阿弥陀仏はお慈悲の仏さま、そのお慈悲は、何の見返りも求めないものです。そのお慈悲は、南無阿弥陀仏という声のすがたとなってはたらいているのです。

 かあさんが編んでくれた手袋に母の思いがこもっているように、私が口にするお念仏にも阿弥陀仏の「我にまかせよ、必ず救うぞ」という願いがこもっています。

 「木枯らし吹いちゃ冷たかろうて せっせと編んだだよ」

 これは、母親からの小包に添えてあった手紙の言葉をそのまま感謝の気持ちで歌っています。お念仏も、阿弥陀さまの慈悲の心がこもった阿弥陀仏のお名前である「南無阿弥陀仏」をそのまま、「有難うございます」という感謝の気持ちで口に称えます。

(住職)