如来さまとともに(64) -3月の法話-

~お互いさま~

 現代は超高齢化社会であるという言い方をされます。そこにはあまり良いイメージはない感じがします。超高齢化社会という言葉には、孤独とか孤立、疎外というマイナスイメージがつきまといます。

 孤独、孤立、疎外という言葉の意味を辞書で調べると、孤独とは「身寄りのない者、独りぼっち。精神的な依りどころがなく、心の通じ合う人などなく、寂しいこと」。また、孤立とは「仲間がいなくて一人ぼっちなこと、他の助けがなくて一人でいること」。疎外とは「よそよそしくすること、嫌ってのけものにすること」ということが出ています。

 これを見てみますと、現代社会でこのような状況があちこちで見られます。そこには、何とも言えない不安があり、人間同士の温もりのない寂しさがある状況が見てとれます。では何故、このような状態が顕著になってきたのでしょうか。

 ある大学教授の方が、20年近く前に「今の社会は人はいるけれども、人間がいなくなった」ということを言われているそうです。それはどういうことかというと、個人一人ひとりの満足度をいかに高めていくかが、幸せにつながっていくのだと考え、個の満足を常に追求する「人」はいるが、「人間」がいなくなったと言われるのです。

 「人間」という言葉から「間」を取ると「人」になります。この先生は、これを「三間喪失」という言葉で説明されています。三つの間がなくなった。この三つの間とは「時間」と「空間」と「仲間」だと言われるのです。これらの「間」はすべて共有されていくはずのものでありますが、私たちは、この共有されるものを断ち切って、自分一人の幸せ、満足を求めていく社会を作ってきたのではないでしょうか。

 「煩わしい世間付き合いはいやだ。他人に邪魔されることなく、自分一人で、家族だけで快適に過ごしたい」「自分一人で生きて行ける」「自分さえ幸せになればいい」等々。その結果が今の時代に現われてきているということが言えるのではないでしょうか。そこには、「お互いさま」という温もりが失われてきているように思われます。

 仏教には、「縁起」という大切な教えがあります。これは「お互いさま」に通じる教えです。縁起とは「それ一つで存在しているものは何一つない、あらゆる存在は、因と縁、また他との関係に依って存在している」のだということです。私という存在も、私が生きていくための様々な条件(縁)が整って生きている(生かされている)。そこには、私を支える力や恵みもあります。また、他との関係性の中にこそ、私という存在があります。世間の中の私であり、世間との関係を断つことはできません。「自分一人幸せ」ということは成り立たないのです。

 しかし、人間というものは根本的には孤独なものなのであるということも、仏教は教えています。『仏説無量寿経』に、「人在世間愛欲之中、独生独死独去独来」(人、世間愛欲の中にありて、独り生れ独り死し、独り去り独り来る)とあります。人間の孤独をあらわした御文(ごもん)です。

 私たちは、本来的には孤独であるからこそ、他との関わりがなくてはなりません。孤独であるからこそ、他の支えが必要なのですね。苦しみ、悩みを共に考える、喜びを分かち合う仲間がいる。そこには温もりがあり、幸せがあります。互いに支え合って生きて行く「お互いさま」という心がとても大切です。しかし、現代社会は、その「お互いさま」の心が忘れられてきている社会だといえるでしょう。

 先にあげた『仏説無量寿経』は、阿弥陀如来という仏さまの救いを説いた経典です。阿弥陀如来さまは、本来孤独である私たちを決して見捨てることができず、私たち一人ひとりにはたらき続けている仏さまです。それは「あなたを必ず救うぞ、本当の安らぎを与えるぞ」とはたらき続けている広大なお慈悲の仏さまです。そのお慈悲の大きな懐に抱かれているのが私たち一人ひとりの存在なのだと説かれています。

 多くの人の力、多くの物に支えられ、また、多くの動物や植物の命をいただいて生かされている私。そして根底には、阿弥陀さまの広大なお慈悲に包まれている私という存在。このことを聞き開くことができたならば、そこには「お陰さま」「お互いさま」でというご報謝の生き方が恵まれます。

(住職)