如来さまとともに(62) -1月の法話-

~仏になる身に定まる~

 新しい年が明けました。今年もよろしくお願い致します。

 この度、私たちは人としての命をいただきました。仏教では、人間に生れることは当り前のことではなく、とても有難い(有ること難い)ことだと教えます。それは、それは本当に希な命だというのです。

 私たちの人生はどんなに長くても百年余りだが、私の存在というものは、遥か遥か過去からのものであり、命終ってすべて終るのではなく、命終後の未来も続く。これは、仏教の話が世間の常識と根本的に違う所です。世間の常識では、皆この世に生れてきたところ(あるいは、母親のお腹に宿ったところ)から始まり、死んで終る。誕生の前の自分なんか考えられないから、むろん死後のことも考えられない。

 しかし仏さまは、この私という存在は、遥か遥か昔から生れては死に、生れては死に、生死、生死という迷いを繰り返して来たのだと教えて下さいます。そしてこの度、人間に生れて来たのだと。しかしまた、必ず命終っていかなければならないが、その時にまた迷いを繰り返すのか、それとも迷いを離れておさとりの仏となるのか、それがこの人生で解決しなければならない一番の問題であると教えて下さいます。これを「後生の一大事」と言います。

 『仏説無量寿経』に、「世の人、薄俗にしてともに不急の事を諍ふ」というご文があります。不急の事とは「まず一番に急がなくてもいい事」ということです。しかし、健康が人生の目的とばかりに、健康のことばかりに関心を寄せる。また、お金こそ一番だと、自分だけ儲ければいいと、お金儲けだけに精を出す。地位や名誉こそが一番だと、それらを得るのに執着する。確かに、健康はとても有難く、お金もとても大切です。地位や名誉も誇らしいものでしょう。しかし、それらが人生の一番の目的だとなると、どうでしょうか?

 仏教は仏のおさとりの教えです。そしてその教えは、私たちが仏になる教えです。同じく『仏説無量寿経』に、阿弥陀如来という仏さまのことが説かれています。

 阿弥陀如来は、あらゆるものに本当の幸せを与えたい、そのために「あらゆるものをおさとりの仏にしたい」という願いを立て、永い永い修行をして、その願いを完成されました。その完成されたすがたが「南無阿弥陀仏」です。その南無阿弥陀仏には、私たちが仏になれる功徳がすべて込められていて、阿弥陀如来の願いは、南無阿弥陀仏と私たちの口に称えられる念仏となって届いているのです。

 浄土真宗は、仏さまの教え、南無阿弥陀仏の教えを聞くことを一番大切にします。南無阿弥陀仏のおいわれ(意味)を聞いて、その救いを受け入れた時に、「仏になる」身にさせてもらうのです。お浄土に生れ仏になる人生の始まりです。それは、死んで終りの人生ではなく、お浄土という死にいくところをいただいた人生です。そこに後生の一大事の解決があります。

 死んでいくとは、どういうことなのでしょうか。死ぬということですべてが終りだとなると、いま生きていることだけに価値を求めて、そのことに執着することになる。そうではなく、死んでいく世界があれば、死は終りではなくなり、死の意味が変わります。また、そのことによって人生の意味も変わります。そこには大きな安らぎがあり、それはとても幸せなことです。

 親鸞聖人は、この度いただいた人生で、阿弥陀仏の救いに遇い、後生の一大事を解決し、「必ずおさとりの仏になる身に定まる」ことが、一番の目的なのだと教えて下さいます。そして、命終ったその時には、お浄土に往き、おさとりの仏になるのです。

(住職)