如来さまとともに(72) -11月の法話-

~親鸞聖人のご教化~

 全国の浄土真宗寺院では、毎年10月頃から報恩講が勤められます。親鸞聖人は、仏教を一般大衆のために説いて下さったご師匠である、法然聖人の教えの真意をよく領解し、浄土真宗をお開き下さいました。そのことにより、仏教が広く多くの人々のものとなりました。私たちにとって、そのご恩は誠に深く大きなものがあります。

 「報恩講」は、親鸞聖人のご恩に感謝し「親鸞さまありがとうございます」とお礼を申す法要です。

 親鸞聖人は29歳の時、法然さまのお弟子になり、他力念仏の教えに帰入されました。そして、そこで恵信尼さまと出会い、32、3歳頃に結婚されました。妻を持ち、家庭を持つ僧侶の誕生です。子どもも生まれました。ここに在家仏教の道が大きく開かれたのです。

 それから聖人は35歳の時、念仏弾圧で越後に流され、その後、42歳頃に関東に赴かれました。すでに当時関東には、法然さまの弟子が多くいました。そしてその弟子方が、法然さまの有力な弟子である親鸞聖人のことを知り、聖人を関東に招いたようです。後に聖人の一番の弟子となる性信房が聖人を越後まで迎えに行き、現在の茨城県にお連れしたと、記録が残っているそうです。

 当時、関東にも念仏はすでに伝わっていました。しかし、当時の関東で広まっていた念仏は呪術的要素の濃い念仏だったようです。念仏を称えることにより、病気を治すことや安産を願ったり、当時は、凶作は命に関わる大問題でしたから、豊作を願ったりというものでした。そこにそれまでとは違った本当の念仏の意味を、聖人は伝えられたのです。一日の仕事を終え集まった人々に、聖人はどのようなお説教をされたのか、私なりに考えてみます。

 

 「皆さま方も、一日一日の生活、ご苦労も多いことでしょう。ご家族もあり、大切に養っていかなければなりませんね。皆さまもお念仏をお称えのようですが、どのようなお気持ちでお念仏をお称えになっているでしょうか。

 私たちの願いとは何でしょうか。まず生活上のことですね。生活はとても大切ですから、生活がより良くなることを願うのは当然のことでありましょう。例えば、金銭的に困りたくない、健康でありたい、家族が安全であって欲しい等々。

 しかし「人生は苦なり」とお釈迦さまが説いて下さるように、私たちは生きている限り、苦しみから逃れることはできません。そこで、苦しみから逃れる人生か、苦しみを苦しみとし、それを乗り越えて行く人生か。仏教は、苦しみを乗り越える道を説いて下さいます。

 まず、申し上げておきたいのは、念仏は呪術ではないということです。念仏をすることによって、病気が治るというものでもないし、豊作になるということもありません。念仏は、病気を治すためにとか、豊作にするためにとか、それらのために利用するものではありません。つまり、自分の欲望をかなえるための念仏は、本当の信仰ではありません。

 苦悩を持たずには生きていくことのできない私たちを、問題として下さったのが阿弥陀仏という仏さまです。阿弥陀仏は、あらゆる人々を、もっというと、生きとし生けるものを、あらゆる苦悩のないお浄土に救い取ろうと、はたらいていて下さるのです。

 真の幸せとは何でしょうか。私たちの日々の生活で得る幸せも有難いものです。しかし、それらの幸せはすべて変化していき、壊れていくものばかりです。そして、それらの幸せが無くなった時には、悲しみとなったり、愚癡となったり、不満となったりします。

 仏さまは『おさとりの仏となることが決して壊れて無くなることのない真の幸せなのだ』と教えて下さいます。仏になるとは、すべての我執、煩悩が無くなり、あらゆる苦悩が無くなるということです。

 『南無阿弥陀仏』のお念仏は、私たちに真の幸せを与えようとはたらき続けていて下さる阿弥陀仏が、私たちのところに至り届いているすがたです。南無阿弥陀仏は、仏さまのはたらきそのものなのです。

 悲しいことに、私たちは、この身がある限りは、おさとりの仏と成ることはできません。しかし南無阿弥陀仏に出遇った人生は、阿弥陀仏のお慈悲に包まれて、必ずお浄土に行き、仏に成ることが定まった人生です。南無阿弥陀仏は『あなたを必ず救い仏にするぞ』という阿弥陀仏の喚び声であり、はたらきです。そのお心をいただいた念仏は、阿弥陀仏へのお礼の念仏です。お念仏申しましょう。ほら、南無阿弥陀仏が聞こえているでしょう。今、ここに南無阿弥陀仏ははたらいていらっしゃるのですよ。有難いですね」。

 

 親鸞聖人のお説教を聞いた関東の人々は、これまでにない喜びを得、大きな安らぎをいただいたことでしょう。必ず浄土に行き、仏に成る身に「今、この人生で定まる」ことが大事です。これ以上の幸せ、安らぎはありません。

(住職)