如来さまとともに(57) -8月の法話-

~人間の愛と仏の慈悲~

 愛情は大切なものです。親子の愛情、夫婦の愛情などの家族の愛情。また、恋人の愛情、友情、隣り近所や知人への思いやりなど、人生に喜びや安心、豊かさを与えてくれるものであり、人生の支えとなるものです。しかし、私たちの愛情には煩悩を持っていますから、何らかへの執着があり、自分の好意を持つ人へという限定があります。つまり、私たちの愛情は限りがあるはたらきだということです。

 8月は、「お盆」の行事が行われます。「盆」は「盂蘭盆」の略で、『盂蘭盆経』というお経に由来しています。『盂蘭盆経』は、インドの『目連救母説話』に、中国人が重んずる孝養の徳目が付け加えられたもので、中国で撰述されたものといわれています。

 このお経には、お釈迦さまの十大弟子の一人である目連尊者とその母の物語が説かれています。

 目連は、自分を一生懸命に育ててくれた亡き母のことを思い、優しかった母が、今どこにいるのかを、その神通力によって捜しました。すると、母はこともあろうに餓鬼道の世界に堕ちて苦しんでいたのです。その身体はガリガリに痩せ細って、骨と皮になっていました。その母の姿は見るに忍びなく、目連は何度も鉢にご飯をのせて差し出すのですが、母が食べようとすると、ご飯はあっという間に火がつき、燃え尽きて灰になってしまうのです。

 母の痛ましい姿を見た目連は、すぐにお釈迦さまのもとに急いで行き、どうすれば母を救うことができるかを尋ねます。

 そこで、お釈迦さまは「目連よ、そなた一人の力では母を救うことはできない」と仰せになり、「雨季の時期に多くの僧侶たちが一定期間、一ヵ所で集団生活を行う雨安居(うあんご)が終る7月15日に、多くの僧侶たちに供物を施すならば、仏と法と僧の三宝の功徳の力によって、そなたの母は救われるであろう」と述べられるのです。この故事に基づいて、中国や日本でお盆の行事が行われるようになったということです。

 目連の母は、それはそれは優しい母親でした。目連を立派な人に育てようと、わが子である目連に母親としての愛情を注ぎ続けました。しかしそのことが、目連の母が餓鬼道に堕ちた原因だったのです。それは何故か。その母の愛情は、目連にとっては必要で、大切なものだったでしょう。しかしその愛情には「わが子目連へ、目連へ」という執着がありました。また「もっともっと」という、果てしない貪欲の煩悩がありました。人間の愛には、悲しいかな限界があるのも事実です。愛情は尊い心ではありますが、我執・煩悩という毒が混じっています。親鸞聖人はそれを「雑毒の善」と示されました。

 餓鬼道は「もっともっと」という貪欲の煩悩、自己への執着によって作られていく世界だと説かれています。それは、あれが欲しい、これが欲しい、それらが手に入っても、もっと欲しいという満足を知らない世界です。これは、私たちが今、作っている世界かもしれませんね。

 仏教の教えの根本は「空」です。「空」ということは、執着がないことを示すものです。仏さまは「空」を悟られた方ですから、一切の執着がありません。ですから、仏さまの慈悲は全く執着、自他の差別がありません。また、私たちの愛情は、煩悩を持っていますから、かっと燃えるような愛となりますが、仏さまの慈悲は「煩悩がないから、無熱の慈しみである」といいます。

 阿弥陀仏は「限りない慈悲」の仏さまです。限りない慈悲とは、あらゆるものにはたらき続けている慈悲であり、差別のない、何の見返りを求めない無条件の慈悲ということです。その心を大悲といいます。如来の大いなる悲しみの心です。それは私たちの自己への執着、我執・我愛を離れられず、貪欲の煩悩によって振り回され苦悩している姿への悲しみです。しかし、阿弥陀仏は、その私たちの愚かな姿をそのまま見、貪欲を捨ててこいと言うこともなく、何の評価をすることもなく、私たちを抱き取り、救い取っていて下さるのです。その大悲は、私たちが知らされるずっとずっと前からはたらきづめだったのだと聞かせてもらっています。一切の差別、条件のない、如来の救いが先なのです。

 「お盆」は、先に命を終えて往かれた大切な方を偲ぶ場でありましょう。また、それだけではなくて、お盆という行事が、仏さまの教えに照らされ、自己の我執、我愛の執着、貪欲の煩悩に振り回されている姿を考えてみる。また、そのような姿の私たちを、そのまま包みこんでいて下さる如来の慈悲を聞くご縁となれば、お盆の仏事としての意味が更に深まるでしょう。

(住職)